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作曲家から見た『野ばら』       田村 修平


―作曲家との対話―
 果たして、これ程迄に同じ詩を用いて作られた多くの作品群も嘗て存在しなかったのではないだろうか。人間がある物語を読んだり、映画を見て各々の感想や印象を持ったりする事と同じ様に、これらの曲を聴き比べて見ると、作曲家自身の詩の受け取り方の違いが手に取る様に分かり、非常に興味深い。作品を聴き進める毎に、まるで作曲家一人ひとりと対話しているかの様な、そんな感覚に浸る事が出来るのだ。私自身も作曲家の一介として共感すると共に、ここでは音楽面に就いて主に触れたい。

 今回演奏される曲目は様々な国々や時代、編成に於いて作曲された作品群であるが、スタイルとしては殆どの作品が調性音楽の域に収まり、旋律歌曲としての体裁を貫いている。ゲーテの残した詩は三節に分かれており、その詩の構造面からも有節歌曲形式の作品が多い事は自然と思われるが、中には通作歌曲形式の作品もブランやフッテラー、ハイトマイヤー等少数ではあるが含まれている。こちらは詩の構造そのものよりも、詩に内包される物語性に重きを置いて作曲されたものであり、これもゲーテの詩の奥深さを改めて表す一要素であると言えよう。全ての曲を1曲ずつ挙げていきたい所ではあるが、紙面の都合上、省略する。


―シューベルトとヴェルナーの影響―
 さて、これらの作品を見て行く中で幾つかの共通点に気付く。一つ挙げられるのはリズムである。ここで注意せねばならないのは、ドイツ語に於ける発音の明確なアクセント位置が定まっているという事実であり、抑々、ゲーテの詩自体が音楽的なリズム構造を以て構築されており、これに依って多くの作品のフレーズが支配されていると言っても過言ではない。尤も、これは他のドイツリート作品に於いても見られる現象ではあるが、詩に曲を付随するという行為の原詩に依る限定性が表出している様でもある。

 シューベルトが『野ばら』を作曲したのは1821年と言われているが、それ以前に『野ばら』を作曲した事が現在判明しているロンベルク(1793)、ダルベルク(1793/94)、ライヒャルト(1793/94)、ネーゲリ(1794/95)、ヴァイゼ(1799)、キーンレン(1810)等 の作品に於いてはシューベルトの作品との類似は多く見られない(※()内は作曲年)。前述の通り、節の区切り方やアクセントこそ原詩の多大なる影響を受けているが、拍子や伴奏形態も様々である。然しながら不思議な事にシューベルトの作曲年以降の作品にはシューベルト作品との共通点が多々見受けられる。例えば最後の"röslein auf der Heiden"がフレーズとしてそれ迄の流れから分離される、或いはそのフレーズの直前にディナーミクや音域に依って頂点が設けられている事や、2分の2拍子が大多数を占めると言う事実(尤も、ここに於いても前述の通り原詩の影響は否めない)等である。彼らがシューベルトの作品に触れたかどうか、今となっては定かではない。然しながら、以降に作られた作品の多くから幾つかの共通点を見出す事が出来る事からも、シューベルトの『野ばら』が、この詩自体から湧き出る自然で忠実な音楽を表現した金字塔であった事を証明していると謂えよう。シューベルトから影響を受けた、と言うよりもシューベルトが如何にこの詩の言語としての本質に迫ったのか、又音楽的性質を存分に引き出したのか、改めて窺い知る事が出来る。

 対してヴェルナーはシューベルトの作品に影響を受けた事を自ら楽譜へ記しているが、その所為もあるのか、敢えてシューベルトとは対照的な方向性(シューベルトの2分の2拍子に対する8分の6拍子、和音伴奏に対する分散和音伴奏)を意図的に打ち出している様に思える。音楽は最終的に有限の組み合わせであり、他作品を知る事に依る作曲家の苦悩がそこに見える事も多々ある訳だが、ヴェルナーの『野ばら』もシューベルト作品との方向性こそ違えど、なんと詩的で美しい作品であろうか。但し、最終的に両作品からもゲーテの詩そのもののリズム感が生き生きと感じ取る事が出来るのは、矢張り詩の多大なる影響力を物語っている様である。ここで演奏される多くの"無名"の『野ばら』達は、書法や提示方法こそ違えど、決してシューベルトやヴェルナーに引けを取る作品ではない。全ての『野ばら』に魅力が有り、色も有る。それで居ながら現代に於いてシューベルト、ヴェルナーの二作品が一般に広く親しまれているのは、彼らが作品への強い敬愛を抱きつつ原詩に対する忠実さを保ちながら、この詩を自らの手がける音楽と結実させて芸術に昇華させる手段に到達していた事を端的に表しているのではないか。


―譜面から感じ取る『野ばら』―
 今回の演奏会では基本的に原調での演奏に限定している。調性は和声音楽に於いて色合いを大きく左右する一要素であり、原詩から作曲家の受けた印象を最も分かりやすく示していると考えた為である。今回演奏する作品の中でクッツアー、マルシュナー、グロスハイム、ダルベルク、グレンラント、メリクヤン等の作品は短調で書かれて居り、彼らの読み解き方を現している。勿論、長調の作品の中でも主調の選択は様々ではあるが、ここに於いてもシューベルトの調性(ト長調)の近親調(ハ長調、二長調等)が多数を占め、且つアマチュアや音楽愛好家に配慮した結果なのか、比較的調号の少ない調を選択している事も又興味深い所である。

 一方、ピアノの書法に然程大きな違いは見られない。これは、多くの『野ばら』が作曲された19世紀頃にこの楽器が一般にも普及し、より身近になっていた為で、何れの楽曲に於いても比較的演奏のし易い伴奏形態と成っている。『野ばら』の作曲された経緯は様々であるが、合唱指導者、音楽教育者に依って手掛けられた作品も決して少なくはなく、多くの人々に広く演奏される事を前提として書かれている事をここから感じ取る事ができる。

 周知の通り、楽譜には無数の情報が書き込まれているが、その中でも際立つのがディナーミク(強弱)変化に依る表現の色分けである。この『野ばら』の詩は前述の通り時系列を伴う描写とも取れ、三節迄の情景や登場人物の心情変化を表現している作品も有るが、それは通作歌曲と言う形式的な形を取ったり、或る節のみを大きく強調する、あるいはクレッシェンド等の変化を以て、彩りを添えている。これ等も含め様々な楽譜に書かれた指示は演奏にも自然に現れてくる部分であるので、今日の演奏を通して作曲家の想いとゲーテの無限に広がる世界観を感じ取って頂ければ幸甚である。


―作曲家が歌曲を、『野ばら』を書くという事―
 最後となってしまったが、作曲家が詩に曲を付随するという事は、何処かでその詩に対する共感を伴っていなければ、矢張り不自然なものとなる。黒と感じたものを白と言い換える弄れた芸術表現は、言語を用いた歌曲に於いては特にその矛盾が結果的に表面化してしまうのである。然し、今日ここに演奏される音楽は、私の個人的な印象としてはどの作品も非常に人間味溢れ、作曲家の想いを率直に表しているのではないだろうか。

 これだけの多くの作曲家―即ち人間―の共感を呼んだゲーテの詩の凄みに改めて感銘を受けると共に、文字として目を介するだけでなく、音楽として耳をも介してそれを感じ、その上多くの人間の感受性を垣間見る事ができる事、これは何とも贅沢で嬉しい機会ではないか。さあ、今日のこの空間に於ける呼吸を、音を、言葉を、あらゆる器官を通して、人間の成し得る芸術―即ち人間そのもの―の素晴らしさを感じようではないか。




田村 修平 (たむら しゅうへい)
東京藝術大学音楽学部作曲科を卒業。第1回老神音楽祭作曲コンクール第1位。第1177回奏楽堂日本歌曲コンクール作曲部門一般の部 第3位。「恐ろしく憂鬱なる(詩:萩原翔太朗)」を始め、 吹奏楽、合唱曲、室内楽、オーケストラなど、多数の作曲、編曲作品がある。



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