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「アダムとイヴ物語異聞」

 ―ゲーテの「野ばら」と「すみれ」―      檜山哲彦


  童は見たり 野中の薔薇
  清らに咲ける その色愛でつ
  飽かず眺む 紅香う
  野中の薔薇

 子どものころ学校で歌いながら、この第一節ばかりが記憶に残っているためだろうか。「野ばら」といえば、ういういしい少年ときよらかなバラのお話、という印象がある。大きな声を張りあげる「わらぁべぇーは、みたぁーり、のなかぁーの、ばぁーら」という冒頭の一行だけが、分りやすかったせいなのかもしれない。
 続く第二、第三節は、言葉がむずかしいことに加えて、飛躍があり、「どうやらばらが棘で刺すらしいな」と思えはするものの、そこに描かれる事情ははっきり呑みこめはしなかった。

  手折りて往かん 野中の薔薇
  手折れば手折れ 思出ぐさに
  君を刺さん 紅香う
  野中の薔薇//
  童は折りぬ 野中の薔薇
  折られてあわれ 清らの色香
  永久に褪せぬ 紅香う
  野中の薔薇      (近藤朔風(さくふう)訳)

 ところが、元の詩を分りやすい言葉で読んでみると、なんのことはない。「きれいなものには棘がある」というべきか、単純にして明解、しかも、じつにあけすけな話なのである。
 野中をゆく少年が一輪のばらに眼にとめ、迷うことなく花に近づいてゆく。ばらは「花の女王」とも呼ばれことがあるけれど、これは人が丹精したものでもなく、大輪でもない。人の手がはいらない荒れ野のなかに、自然に咲いた野生の小さなばらである。
 今朝ひらいたばかりのその花を見つめていると、少年の心は歓びにふくらみ、「どうしても自 分のものにしたい、折って持ち帰りたい」という気持が湧いてきて仕方ない。素直というか、抑えがきかないというか、見初めたからには欲しくてたまらなくなってくる。
 手荒く迫ってくる少年に対して、地面に縛られているばらは、走って逃げることなどできない。身を護るためには、身に備わっている唯一の武器を用いるほかに手はない。まずは「刺すわよ」と威してみるものの、相手は耳を傾けなどしない。向ってくるのに抗い、棘を立ててはみるものの、相手はいっこうひるまない。そしてとどのつまり、折り取られてしまう。
 ことさら「寓意」というまでもない。男と女の出会いの原型が、単純な太い線で描かれている。一方には、自分の魅力に気づくことなく、人を惹きよせる者があり、いま一方に、惹きよせられる者がいる。一方が迫るのに対して、一方は抗うけれど、それもまた相手にとっては魅力となり、ついに一方の思いは遂げられてしまう。いささか荒々しい手管をともなうとはいえ、率直きわまりない出会いのかたちである。

 この詩「野ばら」の根っ子には、若いゲーテにとっては「大きな」ともいうべき、ふたつのきっかけがあるといわれている。
 二十歳を越えたばかりのシュトラースブルクでの学生時代の話だが、詩を作ることに心を惹かれていたゲーテは、その地で知り合った五歳年上のヘルダーによって、自分の足元にあるドイツ語民謡の新鮮さに眼を開かれてゆく。そのうちのひとつに、「レースライン・アウフ・デア・ハイデン(荒れ野のばら)」というリフレインが印象深く、古くは十六世紀までさかのぼりうる民謡があった。
 同じころ、同じシュトラースブルク近郊のゼーゼンハイムで、ブロンドの美少女フリーデリーケ・ブリオンと知り合って、ゲーテは恋をするのだが、恋愛に束縛されるのを嫌って、とうとつに離れることになり、そのとき感じた罪の意識がこの詩の背景にはあるという。ごくごく最近のわが身をもってした体験を客観的に見つめなおそうとして、ゲーテは古い民謡の話の枠組みを使ったのかもしれない。あるいは、誰もが知っている民謡のメロディーに乗せ、じっさいに誰かに語ることにより、生々しい体験の重さを、ほんのわずかであれ軽くしようとしたのかもしれない。
 それにしても、腑に落ちないことがある。いささか類型的とはいえ、まぎれもない恋愛の詩ではありながら、「愛」であれ「あこがれ」であれ、ふつうの恋愛詩にはごく自然に現れる言葉が、いっさい用いられないのはどういうわけなのか。もっぱら力ずくの、一方的な行動が描かれるばかりなのである。
 さらに気になることは、剥き出しの「露悪趣味」とすらいっていいくらいのこの詩に、なにゆえにこそ、百を越える曲が付けられたのか。しかも、ドイツ語のみならず、さまざまな言葉による歌詞で歌われ続け、子ども向けの唱歌としても通用し続けてきたのか。
 もしかすると、一方で、なんらの憚りなく行動する少年ののうちに「無邪気な一途さ」があると思われ、また一方で、けっしてなされるがままではいないばらのうちに「自律の本能にもとづく激しさ」が見てとられたのだろうか。いわば、男と女の、いうなれば人類の始まりこのかたの「純粋な」出会いの姿である。「ハイデ(荒れ野)」という言葉のうちに、その姿の片鱗が現れている、といってもいい。

 一方でこうした詩を作りながら、一筋縄ではいかないのがゲーテというべきか。同じころ、同じく花をモチーフにして、まったく正反対の男と女のかかわりを、これまた民謡の口調で描いている。モーツァルト作曲の「すみれ」がそれである。

  野に咲くすみれ
  うつむいて目にも立たない
  いちずなすみれ!
  羊飼う娘が
  足取りかるくはれやかに
  歌いながらに
  野をやってきた//
  「ああ!」とすみれは
  「とびきりきれいな花ならば
  せめて少しのあいだでも
  あの手に摘まれ、萎えるまで
  胸に抱かれていられるものを!
  ああ、ほんの
  ほんのわずかなあいだでも!」//
  ああしかし、やってきた娘は
  目にもとめずに
  あわれ、すみれを踏みにじる
  息絶えながらも、すみれは嬉しい
  「死ぬといっても、あのひとに
  踏まれればこそ
  死ぬとはいっても、その足元で!」

 「野ばら」と同じく、この詩にも「愛」という言葉は現れはしない。いや、野ばらと少年は少なくとも言葉を交わすのにひきかえ、このすみれと娘とのあいだにいっさい交わりはなく、娘は踏んだことにすら気づきもしない。いうなれば究極の受動的な愛のかたちである。
 この詩にあってもまた、あらわな荒々しさが見てとれるとするなら、ここにもまた原初以来の男女の交わりの典型が表わされている、といってもいいだろうか。「野ばら」と「すみれ」の対は、いわばゲーテ版「アダムとイヴ物語異聞」というものなのかもしれない。





檜山哲彦 (ひやま てつひこ)

東京大学大学院修士課程ドイツ文学専攻修了。東京藝術大学音楽学部教授、大学院音楽文芸専攻。著訳書に『ドイツ名詩選』(共編訳、岩波文 庫)、『ユダヤ的〈知〉と現代』(共著、東京書籍)、『ああ あこがれのローレライ―ドイツ詩のなかの愛とエロス』(KKベストセラーズ)、 『ウィーン―多民族文化のフーガ』(共著、大修館書店)など。句集に『壺天』『天響』(ともに角川書店)。


(「野ばら×91」 配付プログラムより)




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